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小丸山の場所について


「青山(土器山)の合戦」において、赤松軍が陣取ったとされる小丸山については、現在 地図上には存在しない為、その場所について、資料をもとに解説します。

小丸山は、現在では姫路市青山西4丁目北側の住宅団地と青山ゴルフクラブの10番コースとなっています。1975年以前は小高い山として存在していました。下記は、1947年(昭和22年)の地形図ですが、赤い点線の丸で囲んだ場所が小丸山です。その他、夢前川東岸の土器山(秩父山)も、位置関係をご理解いただく為に記載しております。

小丸山は、小高い丘状の山ですが、西国街道を見下ろす場所にあり、東の夢前川東岸の土器山(秩父山)の他、遠く姫路市内まで遠望できる場所でした。


>小丸山の位置(1947年の地形図)




それから、かつての小丸山を撮影した写真があります。
下記は、1976年の青山ゴルフクラブオープン時に撮影されたものですが、正面の小山が小丸山です。
手前は千石池(戦国池)となります。

小丸山は翌年には団地造成の為なくなりました。この為、この写真は小丸山を撮影した唯一のカラー写真ではないかと考えられます。

この小丸山こそ、赤松軍が土器山の小寺・黒田軍への攻撃陣地とした場所であり、後に黒田官兵衛が夜襲をしかけ、赤松軍を壊滅させた場所となります。小丸山と千石池の周辺(まさに写真に撮影されている場所)が、戦闘場所とされます。


>小丸山と千石池(1976年)


※敷地は、ゴルフコースであり、敷地内への無断立ち入りは、大変危険であり
   お断りさせていただいております。ご了承いただきますようお願いいたします。



小丸山からの遠望

かつて、小丸山から姫路市側を遠望した写真があります。

詳細な時期は不明ですが、画面中央の道路(国道2号線)と、その周囲の建築物の状況から1960年代と考えられます。 小丸山山頂からは、夢前川対岸の土器山(秩父山)【黒田軍陣地】※が正面によく見えます。

写真から黒田軍陣地への攻撃拠点として、小丸山は極めて重要な立地にあったと容易に理解できます。

※土器山を現在の秩父山と記載しておりますが、誤りとする説もあります。
  この他、土器山にて合戦が行われたとしておりますが、黒田軍(小寺軍)の陣地は、土器山の麓にあったため、
  合戦場所としては土器坂とする説もあるそうです。
  また、船越山山系の最も西側に位置する山は、秩父山といわれるそうです。


小丸山山頂【赤松軍陣地】より姫路市内(周辺環境より1960年代)




小丸山の歴史と名前の由来について

小丸山(こまるやま)の名前の由来は、『日本書紀』に登場する伝説的な獣人、「文石小麻呂(あやしのおまろ)」が
住んでいたことから 小麻呂山(おまろやま)小麻呂山(こまろやま) ⇒ 小丸山(こまるやま)と呼ばれるように
なったようです。

しかしながら、江戸時代の青山地区の絵図を見ると「御林」「御林山」、あるいは「こう山」「かう山」と呼ばれていた
時期もあるようで、いつ頃から小丸山と呼ばれだしたのかは、定かではありません。

以下、姫路市 青山の小丸山の歴史を振り返ります。

『日本書紀』によれば、およそ1500年前の雄略天皇13年(西暦469年)の頃に、天皇より遣わされた小野大樹に
  よって文石小麻呂(あやしのおまろ)が御井隈(みいくま)で討たれた、との記述があります。
  御井隈(みいくま)とは、姫路市 青山の小丸山付近と推定されています。

応仁の乱(1467年)で有名な「山名宗全(やまなそうぜん)」は、嘉吉の乱(1441年)の後、播磨国守護となりました。
  その際、小丸山の山頂に自らの屋敷を建て、播磨地域全体の統括拠点としていたと伝えられています。
  また、青山には、山名宗全が戦死した一族や家臣の菩提をともらうために「宗全寺」を建てていました。

「青山(土器山)の合戦」(1569年)で、小丸山は赤松政秀軍の陣地となり、合戦場となりました。
  (本ページに記載のとおり)

この他、小丸山では、古墳が出土しています。

※参考文献
  ① 姫路市史 第1巻
  ② 姫路市教育委員会文化部発行 「文化財見学シリーズ40」~『青山地区』をたずねて~
  ③ その他


 
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